『牛来』の爆発的な人気とその問題点
もともと注目されていなかった映画『牛来』が、「ソーシャル認証コード」の機能を利用して一躍有名になりました。観客がチケットを買う目的は映画を見るためではなく、「私もここにいる」ということを示すためでした。これは集団的な視聴、批判、そして「チェックイン」の行為としてインターネット上で広まりました。この映画は「駄作」とさえ言えないほど(基本的な作品としての完成度を欠いています)にもかかわらず、劇場では通常の映画として販売されており、業界が「完成品」の基準を曖昧にしていることや、劇場の責任の欠如を露呈しています。この突然の人気は予期せぬものであり、中国映画の「成功のモデル」となるべきではありません。むしろ業界に対して、「観客が本当に価値を感じる作品」を提供することの重要性を改めて認識させるものです。
解説1:『牛来』は「駄作」にすら該当しない?
多くの人が『牛来』を駄作だと言いますが、実際には駄作の資格さえありません。駄作であっても少なくとも「完成品」であるべきです。つまり、物語がある(たとえうまく伝えられていなくても)、キャラクターがいる(たとえ演技が不自然でも)、ストーリーの展開がある(たとえ混乱していても)——試験で少なくとも答えを書いているようなものです。しかし『牛来』にはまともな物語の枠組みも、覚えられるキャラクターもありません。「なぜ観客に90分間座ってもらうのか」という理由さえ明確ではありません。創作の中で最も時間と労力が必要な部分(脚本の執筆、撮影、キャラクター造形)を省略し、「抽象的な内容」でごまかしています。低予算での独立制作自体は問題ありませんが、「完成していない」という状態を「個性」として売り出すことは、観客の時間を無視する行為です。
解説2:観客が買っているのは映画ではなく、「私も参加している」という証拠
『牛来』を見に行く人々の多くは、映画自体よりも「参加感」を求めています。どれほど奇妙な作品かを知りたがっており、オンラインでの議論に参加したいと思っています。チケットを使って「私もこの盛り上がりに参加している」と証明したいのです。これはオフラインでの話題に似ています。今日見逃せば、明日になるとその話題について話すことができなくなってしまいます。インターネット上の話題の持続時間は非常に短く、誰もが「排除されないよう」にしたがっています。この消費行動はよくあるものです(ライブ配信の失敗や新しい流行を知りたがるのと同じで、「自分が時代遅れではない」という安心感を得たいからです)。しかし劇場は本来、スマートフォンを置いて映画に集中する場所であるべきです。今では「オフラインでの話題のチェックポイント」になっており、映画自体が付属的な存在になってしまっています。
解説3:劇場が守るべきもの:上映許可証を盾にせず、「トラフィックのゴミ箱」としても使わない
「『牛来』が上映されたのは検閲の問題だ」と言う人もいますが、上映許可証(龍標)は単なる「入場資格」に過ぎません。内容が適切か、技術的に基準を満たしているかを確認するものであり、映画が良いかどうかは関係ありません。本当の問題は劇場にあります。許可証を取得した後、劇場は「適切な映画か」を選ぶ責任があります。劇場は短編動画プラットフォームではありません(草稿や冗談、失敗した試みも受け入れることができます)。劇場が販売するのは観客の「時間」ですから、作品が少なくとも「完成品」であることを保証しなければなりません。『牛来』を通常の映画として販売することは、未包装の半製品をスーパーの棚に並べるようなものです。観客だけでなく、真剣に映画を作った人々にも損害を与えます。何年もかけて脚本や撮影に取り組んだ作品が、観客の騒ぎのための興行収入に劣るということは、業界に「真剣な努力は無意味で、騒ぎこそが利益をもたらす」と誤解させてしまいます。
解説4:『牛来』の「成功法」を真似ないで:偶然のヒットは再現できない
『牛来』の爆発的な人気は偶然のものです。観客が惹かれたのは「これまでに見たことのない奇妙さ」です。意図的に駄作を作ったり、流行を利用したりしても効果はありません。業界が必要としているのは「真剣な取り組み」です。『牛来』の成功は偶然であり、模倣しても同じ結果にはなりません。中国映画が解決すべき問題は、観客に再び「劇場に行く価値がある」と信じてもらうことです。商業映画であれ独立系映画であれ、真剣に作られ、観客に責任を持って制作された作品でなければなりません。『牛来』が示しているのは、「チケットが「私もここにいる」という証拠に過ぎない場合、劇場は映画からどんどん遠ざかってしまうということです。
結論
『牛来』の盛り上がりは過ぎ去るでしょうが、残された問題は深く考える価値があります。劇場は「映画は完成品である」という基本を守るべきです。観客は「騒ぎのためだけにお金を払う」ことを拒否すべきです。業界は「真剣に映画を作る」という初心に戻るべきです。結局のところ、劇場の価値は「ソーシャルな入場券」を売ることではなく、「スマートフォンを置いて90分間集中して楽しめる体験」を提供することにあります。